えんじゅ

一番好きな映画


「これまで観た映画の中で,一番好きな映画は何?」

初対面のシーンでは,こんな会話が交わされることが少なくない.
それは,まず相手の「一番好きな映画」を知ることが,相手の個性を理解するためのショートカットだと信じられていることの,1つの実証に他ならない.
「一番好きな映画」には,その人特有の感性が投影されているはずだ,と.

一体,人はどんな映画をどんな理由で,「これまで観た映画の中で,一番好きな映画」と認定するのだろうか.

僕にも,なぜか忘れられない他人の「一番好きな映画」というものがある.
僕がその映画と出会ったのは,旅の途上だった.



貧乏旅行をしていると,日本人,外国人を問わず,本当にさまざまな人が通り過ぎてゆく.「出会う」のではなく,「通り過ぎる」のだ.ハロー・グッバイの世界では,別れることを前提として人と出会う.3カ国も旅をすれば,別れこそが出会いの前提であることを,誰もが体得してゆくのだ.それは,旅そのものが同じように,いつか故郷に帰ることを前提としたものであるからだ.別れがまず前提としてある世界では,出会った人も言葉も,否応なく通り過ぎてゆく.
それでも,その中の1つ2つは,その土地の空気と共にいつまでも忘れられなかったりする.


北京で,遅れているモンゴルのビザの発行を痺れを切らしながら待っていたとき,1人の女性バックパッカーと出会った.彼女は,沖縄を旅し,ベトナム,タイ,ラオス,カンボジアなどの東南アジア各国を旅していた.よほど長い旅を続けているのだろうか,どこか日本人離れしたオリエンタルな雰囲気が,すでに彼女の内面から滲み出ているように感じた.

蒸し風呂のような鬱屈したドミトリーの部屋で,水代わりのビールを飲みながら,にわか雨をやり過ごしていたときだった.

「これまで見た映画の中で,一番好きな映画って,何?」

よほど時間をもてあました時にしかしない質問を,僕は彼女に投げかけてみた.

「『ナヴィの恋』が好き.」

そう答えて,彼女は少し照れ笑いを浮かべた.

いつもなら,自然と通り過ぎて忘れ去ってゆくはずのその質問の回答を,僕は今でも忘れられないでいる.彼女に特別な感情を抱いたからではない.それはきっと映画の内容と,その時の僕らの旅に,不思議な乖離があったからなのだと思う.


* * *

映画『ナヴィの恋』は,もしかしたらずっと来ないかもしれないその時を,ずっと同じ場所で待ち続けた,1人のおばぁの恋の物語である.

沖縄の離れ小島に住むナヴィは,60年生活を共にしているおじぃと幸せに暮らしている.島に流れるゆったりした時間と,おじぃの奏でる三線のリズムの中で,60年間懸命に働いてきた.

彼女はそんな果てしなく続く日常を愛していたが,心の底にはずっと変わらぬ想いを秘めていた.60年前島から追い出され,彼女の傍から去っていった青年への想いを.おじぃには知られないように,ずっとその青年の家の墓を守ってきた.

25歳になったナヴィの孫娘奈々子は,久しぶりに船で帰郷する.村は奈々子を歓迎するが,その一方で,その船は1人の老紳士を共に乗せてきていた.
その老紳士の名はサンラー,ナヴィがずっと恋焦がれてきた人だったのである.
やがてナヴィとサンラーは,墓の前で運命の再会を果たす.それは60年前,サンラーが島から去ってゆくときに交わした約束だったのだ.「いつか,必ず迎えに来るから」と.
ナヴィは60年間心の底でその瞬間を待ち続けていたのだった.

一方,村は占いで,再びサンラーを島から追い出すことを決める.

「奈々子,この花,あんたにあげるさぁ.」

長年大切に育ててきたブーゲンビリアと別れ,ナヴィは密かにサンラーと共に島を離れる決意をする.

「奈々子,今日はお前がランチを届けなさい.」

その日,おじぃはいつもナヴィに届けさせるランチを,奈々子に届けるように言う.おじぃはナヴィがサンラーの元へ去ってゆくことを察知していたのだ.いや,それは「60年間待ち続けた人の元へ行きなさい」という,ナヴィへのメッセージだったのかもしれない.

そしてその日の午後,サンラーの漕ぐ舟に乗って,ナヴィは旅立っていった.

* * *


次の日目が覚めると,ドミトリーに彼女の姿はなかった.彼女と親しくしていたフロントの男性に聞いてみると,上海行の列車に乗るために,その日朝一番で旅立ったということだった.

何のことはない,数え切れないくらい日々連続する,別れの言葉さえない数多のグッバイの中の1つだった.

彼女は,別れを前提とした出会いの中で「通り過ぎてゆく」生活をしながら,いつか出会うかもしれない人を「待ち続ける」映画が一番好きだと言った.いつか誰かを「待ち続ける」生活に憧れながら,新しい人との出会いに刺激を求めて旅を続け,何人もの人達の間を「通り過ぎてゆく」.
1人の女性の,そんな若いアンビヴァレントな感性を,僕は彼女の「一番好きな映画」の中に見つけた気がしたのだ.

もう二度と彼女に会うことはないだろうが,もしも彼女に今1つだけ質問をすることができたなら,僕はこう問いかけてみたい.


あなたの「一番好きな映画」は,今でも『ナヴィの恋』なのだろうか,と.


(2006年11月)