えんじゅ

黄色いライター


その少女は濃紺のセイラー服に身を包んで,携帯電話を片手にコーヒーを飲んでいた.
幸せそうでもないが,かといって不幸せそうでもない.コーヒーを飲みに来たというよりも,とりわけ他に何もすることがないからコーヒーを飲んでいるように見えた.なにやら携帯電話の用事が終わると,少女は慣れない手つきで煙草に火をつけた.

新横浜駅から少し離れた人通りの少ない通りにぽつんとある古びた喫茶店.前夜からずっと気を張り詰めていた僕は,新幹線に乗って京都に帰る前に少し静かな時間を過ごしたくて,お客の少なそうな喫茶店に入った.その喫茶店の名は「アンクル」といい,偶然にも僕が高校生のとき,授業をサボって友達と煙草を吸いに通った喫茶店と同じ名だった.
僕の嗅覚は正確だったらしく,「アンクル」には僕の他に1人の少女しかお客がいなかった.
ぬるくて砂糖が混ざりにくいコーヒーを飲みながら,ふと煙草を吸いたくなった.煙草をくわえて大きな皺のついたコートのポケットからライターを探したが,見当たらない.昨夜は1本も煙草を吸えなかったから,もしかすると京都からライターを持ってこなかったのかもしれない.隣のテーブルのセイラー服の少女に声をかけてみた.

「火を貸してくれませんか?」

よくある話だ.そう,よくある話.制服姿の少女に火を借りた僕は,その少女の喫煙行為を肯定することになるのかもしれないが,そう深くは考えなかった.前夜の寝不足で意識が朦朧としていたこともあったし,「横浜のセイラー服」に何らかの感情を持ったのかもしれない.そして何より,自分もかつて背伸びして「アンクル」で煙草を吸っていたから,なんとなく親近感を覚えたのかもしれなかった.

「いいですよ.」

そう言って彼女は手元にあった「クマのぷーさん」の絵柄の入ったライターを差し出してくれた.僕はくわえた煙草に火をつけた.ライターを返そうとすると,彼女はそれを受け取る前に,学校指定と思しき使い込まれた鞄から何かを探しはじめた.ごそごそ鞄の中を引っ掻き回している間,ファスナーに付いている大きな人形のキーホルダーの鈴が場に似つかわしくないくらい大きな音を立てて揺れた.
彼女は何かを探していた.それもずいぶん長い間一生懸命探していた.ぷーさんのライターを持ったまま,僕は何もすることができず,その彼女の姿をなんともなしに見つめていた.セイラー服と同じような濃紺のナイロンの鞄は形が崩れていて,あらゆるところが擦れて白くなっていた.随分ぞんざいに扱われているのだろう.手をつっこんで手当たり次第にごそごそやっているので,鞄の中身が整頓されていないらしいことも推察できた.

ようやくつっこんだ手に「アタリ」があったのだろう.何かを探し当てたらしい顔つきで彼女は鞄から手を出した.その手には黄色い透明のライターが握られていた.

「よかったらどうぞ.そっちはクマの絵が入ってるんで・・・.」

僕は10くらい年下の少女の厚意に感動しながら,手に持っていたぷーさんのライターを彼女に手渡し,オイルの少なくなった黄色いライターを受け取った.

「どうもありがとう.」

横浜の平凡な朝,平凡な喫茶店で出会った,平凡な厚意.たった,たったそれだけのこと.でも,人生に必要なことって,そんなにたくさんはないんじゃないだろうか.
「アンクル」の少女の小さな厚意に,僕の心は晴れ晴れとした.そしてそのとき,なぜかこれからはこれまでより大きな声で挨拶をしようと決心した.
特にこんな美しい少女の住む街では・・・.

僕の尊敬する人がこんなことを言っていた.

「マニュアルばかり教えられると,人間として当たり前のことを咄嗟にできなくなってしまう.」


前夜の疲れからか,自分の席に戻って煙草を吸い終えた僕は,本を読んでいるうちに幢幢と眠り始めた.
30分くらいは眠っていただろうか.眼を覚ますと,ぬるいコーヒーは冷たくなっていて,隣のテーブルに少女の姿はなかった.
僕は黄色いライターで2本目の煙草に火をつけた.
最後に別れる際に,もう一度少女にお礼を言えなかったことを少し悔やみながら・・・.
  

(2006年3月)