えんじゅ

5.長浜の夫婦


旅の終わりは,思いもかけないところからやってきた.

駅のベンチに座って八幡浜で買った魚肉ソーセージを食べていると,あることに気がついた.財布に金が入っていないのである.たった350円しかない.この無人駅の近くにATMなどありそうもない.駅舎で運賃表を見てみると,隣の伊予上灘駅までは200円で行くことはできる.とは言っても,伊予上灘に行けばATMがある保証なんて,どこにもないのである.おまけに今日は日曜日である.数時間後にやってくるであろう夕焼けを下灘駅で見たかったが,こうなったら仕方がない,ATMを探しに行こう.
僕の旅はいつも行き当たりばったりで,準備らしいことをほとんどしないのだが,準備すべきときに準備をしておかなければ,せっかくの貴重な時間と風景を見失うことになる.
自分の阿呆さにあきれながら,後ろ髪を引かれる思いで駅を出て,古びた旧道を歩き始めた.

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旧道では,古く色褪せた道や看板と,咲き始めたばかりの色鮮やかな草花のコントラストが,長い時の流れを感じさせた.
花を見ながら歩いていると,ボイラーに薪をくべている老人に出会った.風呂を沸かしているのだろう.このあたりにATMはありますか,と尋ねてみたが,耳がかなり遠く,何度も何度も大きな声で繰り返した後,やっとのことでATMという言葉を聞き取ってもらった.すると,老人は

「ATMって何かいね?この旧道を少し行ったらミセヤはあるけんど.」

と言った.「ミセヤ」というのは「お店」のことを言っているらしい.愛媛のコンビニのほぼ全店にATMが設置されたのは,わずか半年ほど前のことだと聞いていたから,老人が知らないのも無理はない.とりあえず教えてもらったミセヤに行ってみることにした.

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ところが,歩けど歩けどあるのはガソリンスタンドくらいでミセヤらしきものがない.この1本道で道を間違うはずもない.ミセヤというのはお店のことではないのだろうか.道を引き返し,漁港まで戻って事務所にいた若者に尋ねてみると,ATMはこの辺りにはない,と教えてくれた.

途方に暮れて海を眺めていたら,昔同じようなことがあったことを思い出した.北海道の函館でも無一文になり,青函フェリーに乗る長距離トラックをヒッチハイクして旅を終わらせたことがあった.あれから10年,ようやく自分で金を稼ぎ始めても,僕は何も成長していないのである.

仕方がないので378号線に出て,本当に久しぶりに親指を立てた.
これまで何百台とヒッチハイクをしてきた.この歳になって途方に暮れてヒッチハイクをするとは思わなかったが,車に止まってもらいやすい場所は経験上すぐに嗅ぎ分けられる.その条件は,できるだけ運転手が先の方まで見通せる直線路であること,その直線路に入る前あたりに信号や交差点などスピードを落としやすい場所があること,停車しやすい空間が傍にあることである.ただこの歳になって,止まってもらえるのだろうかという不安はあった.


10分後,止まってくれたのは旧型のスカイラインだった.

「どこまで行きたいん?」

「空港まで行きたいのですが,ATMのあるところならどこでもいいです」

「乗っていきィ」

スカイラインに乗せてくれたのは,ボブ・ディランのようなパーマの男性と,スラリとして芯の強そうな感じの女性の夫婦だった.歳は40前半,といった具合だろうか.

「どっから来よったん?」

「今からどこ行くん?」

お決まりの質問にひとしきり答えた後,僕の方から質問してみた.

「地元の方なんですか?」

「長浜や.長浜で暮らしよる.ええトコや」

長浜の夫婦は,これから息子に会いに松山まで行くのだと言う.
長浜にある鉄工所で働いているらしい.長浜には3つ鉄工所があるが,その中では一番大きい鉄工所らしい.「一番大きい」というところを,男性は少し誇らしげな語気で言った.その言い方の感じからすると,鉄工所の経営者なのかもしれない.随所に「ウチの鉄工所は」という雰囲気が感じられた.
ひとしきりお互いの身の上を話し終えると,ヒッチハイクの話になった.すると男性は笑いながらドキッとするようなことを言った.

「ヒッチハイクって,乗せる方も勇気いるんよ.ホラ,後ろからナイフで刺されるかもしれんけん」

考えてみるとそうだろうな,と思った.僕がヒッチハイクをしていたような時代から考えると,ずいぶん物騒な世の中になってしまった.全国のあちこちで見知らぬ人を襲う通り魔事件や強姦事件が乱発している.おまけに僕の顎には無精髭が伸びていて,見た目ドロボー風なのだ.

「そうですよね,ありがとうございます.」

お礼を言うと,男性は続けて言った.

「あんたは大丈夫や思たんじゃ.カメラ持っとったやろ?今から人を刺そいうようなヤツは,カメラなんか持っとらん」

親指を立てて道路脇に立っていた僕の肩には,買ったばかりの大きな一眼レフカメラがかかっていた.男性が言うには,人を刺すような,人生をどうでもいいと考えているような人間は,今目の前にある景色をカメラにおさめようなんて思わんだろう,ということだった.
まさに,目から鱗である.その考えが100%正しいのかどうか,犯罪者になったことのない僕には判断できないが,そういう自分の基準で瞬時に世の中のことを,人のことを見ることのできる人というのはすごいな,と思った.この男性は鉄工所でも管理職のような,人を見る仕事をしているのかもしれない.


車内から窓の外を見ると,相変わらず海が広がっていた.本当ならば夕暮れ時まで下灘駅にいて,潮の香りを受けながら瀬戸内に沈む夕陽を眺めてみたかった.その風景の中でいろんなことが頭に浮かぶだろう.そのとき頭に浮かぶものがどんなものなのか,自分でも楽しみにしていたようなところがある.
でも今,乗せてもらった車の中から海を眺めながら,こういう終わり方も悪くないな,と思っていた.美しい景色を見ることができたし,地元の人の優しさにもふれられた...

国道沿いのローソンをいくつも通り過ぎた.

「どこでもいいですよ,本当に.ATMがありそうなコンビニでどこでも」

僕が言うと,

「ええんよ.」

男性はさも当然,といった風にそう言ってくれた.

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30分ほどで,旧型スカイラインは松山空港に到着した.空港のATMで無事金を引き出し,夕方の便の予約を取ることができた.

「ちょっとお茶していかん?」

と夫婦が誘ってくれた.僕の予約した飛行機まで時間があることを知って,そう誘ってくれたのだろう.息子との約束の時刻にも,まだ少々の余裕があるようだった.空港ビルの2階にあるレストランに3人で入り,お茶を飲んだ.僕は勧められるままにビールと鰺の開きを頼んだ.昼に食べた魚肉ソーセージも鰺100%と書かれていた.今日は鰺づいているらしい.
奥さんは僕がこれまでしてきた旅についてあれこれと質問してくれ,興味をもって聞いてくれた.特に昔ヒッチハイクで出会ったいろいろなエピソードを話すと,奥さんはえーっとか,へーっとか大きな感嘆声を上げ,大学生になって下宿に引きこもりがちのウチの息子にも,そんな旅をさせたいわ,と言った.

支払いは当然僕がしようと思っていたが,その段になって,夫婦は頑なに金を受け取ってくれなかった.

空港から市街地の方へ去っていくスカイラインを見送った.男性は別れ際,もし長浜に来ることがあったら鉄工所に来たらエエ,駅で聞いたらすぐわかる,長浜で一番大きい鉄工所じゃけん,と言った.「一番大きい」というところがやはり少し誇らしげで,おもしろかった.
走り去るスカイラインが見えなくなるまで,僕は頭を下げ続けた.

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松山発羽田行きの飛行機に乗り込んだ.
飛行機の窓の外では,今しがた歩いてきた四国が次第に小さくなっていき,やがて真っ白になった.その風景をぼんやりと眺めていたら,旅が終わってしまう寂しさに圧倒されそうになってしまった.
明日からまたいつもの日常が始まる.

それにしても,と思う.この旅は人を見送ることが多かった.九州では横断バスで名古屋のおばちゃん安田さんを見送ったし,下灘駅では電車に乗り込む地元のおじさんを見送った.そして松山空港で,スカイラインに乗って去ってゆく長浜の鉄工所夫婦を見送った.
本来,見送られるのは旅人の方だろう.土地を訪れ,去ってゆくのは旅人の方なのだから.そうと思うと,不思議な旅だった.
でも,人を見送ることの多い旅というのは,きっといい旅だろう.出会った人と言葉を交わし,お世話になった人を見送って,また続く道を歩き出す.

旅で出会った人が去ってゆくとき,別れ際にみな口をそろえて言ってくれる言葉がある.旅をしているのが日本であっても海外であっても全く変わらない言葉.それは旅をしていてかけてもらう言葉の中で,最も嬉しい言葉かもしれない.

いい旅をね,と.
 
(おわり)


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