えんじゅ

アフリカと落花生

落花生

 4ヶ月近くかけて畑で育ててきた落花生が、無事に収穫の時期を迎えた。無農薬で鶏の糞だけを肥料にして育てたのだけど、それでも1年間食べられるくらいの充分な収量があった。

 「落花生」というのは素敵な名前だな、と思う。
 マメ科特有の丸みを帯びた葉が繁り、しばらくすると黄色い花が咲く。花が受粉して地に落ちると子房柄という部分が伸びて、地中に潜り土の栄養を吸収して種子がふくらむ。まさに花が落ちて生が宿る作物なのだ。
 落花生は、アメリカではピーナッツ、イギリスではグラウンド・ナッツと呼ばれているけれど、ザンビアのベンバ語ではインバララという。
 英語名をベンバ語ふうにアレンジした名前ではなくて、ベンバ語オリジナルの名前がある。つまり、ザンビア(当時のローデシア)がイギリスの植民地だった時代よりも以前から、落花生はこの地で栽培されてきた。
 僕が落花生を自分で育ててみたいと思ったきっかけは、アフリカと落花生にまつわる、とても長くて深い歴史を知ったことだった。
 
落花生の収穫

 落花生の原産地は南米大陸だ。南米ではなんと紀元前から食用として栽培されてきたという。
 その落花生が南米大陸からアフリカ大陸に渡ってきたのは、植民地時代よりも以前の16世紀、奴隷貿易の時代のことだった。
 当時、西アフリカから南米へ黒人奴隷を輸出していたポルトガルが、南米から西アフリカへ落花生を持ち帰った。落花生は、奴隷と引き換えにアフリカ大陸に渡ってきたのだ。
 やがて落花生は西アフリカの海岸からアフリカ大陸全土に普及していった。かつて奴隷貿易の拠点となった西アフリカのセネガルやガーナ、ナイジェリアは、今でも落花生の主要生産国になっている。

 奴隷貿易が終焉を迎えてから、南米から渡ってきた落花生はアフリカの人々を苦しめることになった。
 フランスは植民地として支配し始めたセネガルで落花生の栽培を強制した。油脂分が豊富な落花生からとれる工業油、食用油に目をつけたからだ。この植民地における落花生栽培には周到な搾取構造があった。
 当時ヨーロッパの国々は植民地であるアフリカの人々に人頭税を課した。人頭税というのは納税能力の有無に関わらず人間1人に対して一律に課される税金で、ヨーロッパ宗主国の貨幣で支払わなければならなかった。だからアフリカの農民は、ヨーロッパ人が買ってくれる換金作物を作らざるを得なかった。
 それまで小規模ながら多様な作物を栽培していたアフリカの畑は、こうして換金作物単一栽培の大規模なプランテーションへと変わっていった。そして単一作物栽培の常、不作の年には貧困と飢餓が深刻化した。
 アフリカの人々にとって、落花生は忌むべき作物だったのだ。しかし皮肉なことに、フランスから独立したセネガルでは今、落花生は国の重要な輸出品目になっている。

生の落花生

 奴隷貿易時代、植民地時代を経て、落花生の栽培はアフリカ大陸に拡がっていった。僕が住んでいるザンビアでもいたるところで栽培されていて、村の野菜売り場にも並べられている。

 土から収穫したばかりの落花生のサヤを開くと、淡い紫色をしたかわいらしい種子が入っている。
 ザンビアでは種子を生でも食べる。調理したものよりも少し渋みがあるけれど、土の香りを嗅ぎながら食べる新鮮な落花生には、独特の土の風味とみずみずしさがある。
 生食以外では日本と同じように、茹でたり炒ったりしておやつがわりに食べたりもする。落花生は栄養価もカロリーも高いので、小腹が空いたときにつまむのにちょうどいい。
 保存用に乾燥させた落花生は、イベンデとウムインシと呼ばれるすり鉢とすりこぎで潰し、パウダー状にする。この落花生パウダーを葉もの野菜にからめて煮込むと、イフィサシと呼ばれる伝統料理になる。
 「アフリカン・ポローニ」とも呼ばれるチカンダ(チカンダという植物の粉を練った料理)の主原料としても、落花生は欠かせない。

 かつてアフリカの人々を苦しめた落花生は今、アフリカの日々の食卓になくてはならない食材になっている。
 
新鮮な卵  |  記事の一覧に戻る  |  無名のゴスペル